長崎市の聖福寺で、普茶料理をいただきました
黄檗宗(おうばくしゅう)の宗祖・隠元禅師が長崎に伝え、全国に広めた普茶料理の紹介。
長崎・聖福寺に伝わる本格的な普茶料理。
江戸時代初期の1654年、中国(現在の福建省)の禅僧隠元隆琦が来日。
その時一緒に伝わった当時の「素菜」(スーツァイ、いわゆる中国式の精進料理)が普茶料理である。「普茶」とは「普(あまね)く衆人に茶を施す」という意味であり、法要や仏事の終了後に僧侶や檀家が一堂に会し、煎茶などを飲みながら重要事項を協議する茶礼に出された食事が原型となっている。
慶応3年(1867)5月22日、いろは丸事件の談判が、この聖福寺で行われました。
4月23日、坂本龍馬らが乗った「いろは丸」は、瀬戸内海で紀州藩船「明光丸」と衝突・沈没。
その賠償交渉が鞆(とも)の浦(福山市)と長崎で行われ、龍馬は土佐藩士・後藤象二郎とはかり、紀州藩に賠償金8万3000両(のちに7万両に減額)を支払わせることで決着しました。
このとき龍馬は世論を味方にするため「船を沈めたその償いに、金をとらずに国をとる」という歌をつくり、長崎の街中に広めたと言われています。
料理の写真詳細は、松原ワールドをご覧ください
http://www.matsubara-world.jp/?p=2120